日本美術史に於いての"核"と"根幹"展

 
中古・中世・近世・近代という系譜で日本の書画は発展を遂げて行きますが、そこには時代別に応じた発展と価値観に応じた需要が存在し成り立っていきます。
島国である日本の文化は、大陸文化とは異なり独自の"美意識"や"情緒"と言う内面を表しています。
信仰・文化・需要・反映・と言った成り立ちを日本美術史で最も重要な"核"と"根幹"であるべき書画と言う分野を通して感じて再認識頂ける事を願っています。

第5期 洒脱

読んで文字通りの"洒脱"さえも表現したかった分野です。
固定観念や既成概念に捕らえられ無いと言う言葉が、洒脱と言う言葉に最も近い存在かとおもいます。
日本人ならではの洒脱さであったり、ある種の逸脱であったりを感じていただけますと幸いです。
 
 
茄子画讃
太田垣蓮月
1791-1875
紙本着色
個人蔵
50.3 x 119.5 cm

太田垣蓮月は二度結婚し三児をもうけたが、二度とも離縁し、子供にもすべて先立たれた後、尼僧となり、仏門に帰依しつつ書画・作陶に没頭した。 その美しさから、生前より人気を博し、作品の需要も多かったと伝えられる。彼女が焼き、和歌を刻んだ「蓮月焼」は、その重要の多さゆえに模倣する者が後を絶たなかったとされる。一説に蓮月は、模倣する者のために、自ら和歌を刻み、快諾して焼かせたともいわれている。彼女の書は茶方で珍重されてきたが、近年は内外問わず再評価されつつある。

以下読み下し文。

世の中に みのなりいてゝ おもふこと なすはめてたき ためし也けり

何かを成し遂げることや、それにかける思いは良きことだとみなす、人生訓的な言葉である。
成す=茄子とかけて詠み、蓮月特有の、おおらかで女性的な書体に、ふくよかな茄子を掛け描いたもの。「蓮月七十五才」と記されている。
 
 
雲龍図描表具短冊掛軸
橋本雅邦
1835-1908
紙本【画部裂地着色】
個人蔵
44.2 x 176.0 cm

橋本雅邦は江戸木挽町狩野家の邸内に生まれた。父は狩野養信門下の絵師、橋本養邦。幼少より父養邦に習い、のちに養信に入門。
養信亡き後、偶然にも、同日入門同様でった芳崖とともに、子の雅信(勝川院)の門下となり画業を深めた。芳崖とともに勝川院門下の四天王と呼ばれ、とくに名手として名高い二人は、「勝川院の二神足」・「勝川院の龍虎」と称された。幕末の動乱の中、狩野派の衰退により一時期画業が困難となりながらも、紆余曲折を繰り返し、芳厓と共に画業を研鑽した。「内国絵画共進会」への出品作が高い評価を得て以降、国内外の展覧会に作品を多数出品し、数々の受賞を果たす。岡倉天心、フェノロサらによる東京美術学校設立にも携わり、1988年、美術学校開校を目前に盟友芳崖が歿すると、芳厓絶筆の悲母観音の仕上げを行った。帝室技芸員【現人間国宝】となり、岡倉天心が東京美術学校を去るにあたっては、横山大観、菱田春草らとともに同校を辞し、日本美術院の創立に尽力した。1900年、パリ万国博覧会に《龍虎図》を出品し銀賞を受賞。1908年歿。この年、狩野派の古例に倣い、病身で描きあげた宝珠三顆の図が絶筆となった。
本図は、応需にて制作された描表具であり、通常、絵師としては触れない表装部分にのみ筆を入れた作品である。天から見下ろす雲龍の傍らには家紋が見受けられる。色紙・短冊掛けを、あえて雅邦に描かせた発注主はの意図は計り知れないが、勝園の落款がある事から、雅邦が狩野勝川院雅信門に在籍中と考えると、幕末の動乱の中、狩野派低迷期に受注された作品と思われる。ただ、当時すでに頭角をあらわしていた雅邦の短冊掛とは、奇品と言わざるを得ない。
 
 
描表具寿星山水図
長谷川玉純
1863-1921
紙本【画部裂地着色】
個人蔵
44.4 x 174.0 cm

長谷川玉純は、四条派の画家、長谷川玉峰の長男として生まれた。京都画壇の「新香美術品展」をはじめ、「内国勧業博覧会」や海外の博覧会に出品している。日本絵画協会京都青年絵画共進会審査員を務め、同共進会や、シカゴでの「コロンブス記念万国博覧会」、「内国勧業博覧会受賞」などで受賞歴がある。
本図は、渓谷の中心に、南極星を人格化した寿老人を配置したものだが、その表具は織物ではなく、「描表具」といわれる技法を用いて、画家が描いたものである。荒々しい渓谷の景色に加え、寿老人=南極星に結びつけるため、陰月陽月を表す月陽も添えられている。
「描表具」は、本紙の絹部分を表具に見せる古来の技法で、遊び心溢れる手法である。江戸期には、斬新なデザインや、ユーモアのあるものが好まれ、織の表具裂では表せない、一味違った、自由な発想が、観る人を惹きつけたものと思われる。
 
 
描表具日章旗図
織田杏逸
1890-1970
絹本全彩色
個人蔵
70.5 x 137.5 cm

織田杏逸は、明治21年、織田杏斎の三男として名古屋に生まれた。京都市立絵画専門学校を卒業後、西山翠嶂に師事。帝展入選、花鳥・山水画を得意とした。
本図は、全面に本紙絹本を用いて描かれた総描表具の一幅。画題は日章旗である。太平洋戦争を知らない世代としては、ただ、国花である桜や菊が全面に表されていること、そして、国旗を題材とする作品であることのほかに、特に軍国主義的な表現として問題視するものではなかった。
書画は、その時代背景を表すものであり、時代が移り変われば、作品への評価も変化する。現在の若年層にはどのように映るのか、人によって様々な意見があると思うが、私自身は日本の色と日本の美を表した作品として観ている。
 
 
白鼠図
湯川松堂
1868−1955
絹本着色
個人蔵
22.2 x 196.5 cm

湯川松堂は和歌山の生まれ、三谷貞広、鈴木松年に師事。明治中期の美術界を指導開拓した第一人者である。
人物、山水、動物、花鳥いずれの描写にも秀で、1903年に「第5回内国勧業博覧会」で入選し、その後、小松宮家に厚遇され、1906年に宮内省の委嘱により『岩倉公一代絵巻』を描く。その後も皇室御用の屏風絵や明治神宮奉納画を描くなど活躍し、1955年に大阪にて87歳で沒した。
本図の画題は、至ってシンプルながら、極めて斬新な発想に基づいており、これまで類似の作を見かけたことはない。
表具において、中廻しの両側は「柱」と呼ばれるが、左側「柱」にそって、天井へと駆け上がる白鼠を描いた作品である。左隅の「柱」を家屋の柱に見立てて、鼠を走らせる面白さ。軸の大部分を余白とし、絶妙な配置で描いた発想力は、現代人の眼からみてもなかなかのものといえる。
 
 
洋酒礼文
田山方南
1903-1980
紙本墨書
個人蔵
52.5 x 121.5 cm

文化財保護審議会専門委員・文部省国宝監査官であった田山信郎【方南】が、贈られた洋酒『OLDSCOTCH・マッカラン?』を友人達と楽しんだ内容が記されている。氷割を楽しんだという文面から、友人たちとオンザ・ロックで楽しんだのであろう。普段は書などの作品を見るのみだが、こんな風に方南自身ウィスキーに感動し、ロックで楽しんだと伺い知れる内容の作品には、文化人のプライベートを垣間見る面白さがある。