日本美術史に於いての"核"と"根幹"展

 
中古・中世・近世・近代という系譜で日本の書画は発展を遂げて行きますが、そこには時代別に応じた発展と価値観に応じた需要が存在し成り立っていきます。
島国である日本の文化は、大陸文化とは異なり独自の"美意識"や"情緒"と言う内面を表しています。
信仰・文化・需要・反映・と言った成り立ちを日本美術史で最も重要な"核"と"根幹"であるべき書画と言う分野を通して感じて再認識頂ける事を願っています。

第2期 近世絵画の発展

中世を過ぎ、絵画は大きな転換期を迎えます。
様変わりする程一瞬にして変化を遂げると言うよりは、各時代のトレンドが現れたりと様々です。
華々しい作家や作品イメージながらも、もの寂しくあったり、穏やかであったりと絵師達の内面を伺い知る事も出来、世間一般的な印象から掛け離れた姿を見せる事もしばしばです。
魅せる画と魅入る画の違いを、敢えて近世絵画の発展の中で感じていただけますと幸いです。
 
 
十月十八日谷原氏宛消息
円山応挙【主水】 
1733-1795
紙本着色
個人蔵
45.0 x 98.0 cm

円山応挙は、江戸時代中期~後期にかけて活躍した京都画壇の中心人物で、日本絵画史において重要な位置を占める円山派の祖でもある。本作は、その応挙が谷原氏という人物にあてた書簡である。
文の頭に口演とあり、文頭から先達て、、とある。
応挙が1749年(17歳頃)に野派石田幽丁に入門し、1766年に応挙に改名するまで名乗っていた「主水」という銘を用いている点、そして、菊の花の描き方からも、狩野派の様式を学んだ、若かりし頃の作品であることがうかがえる、貴重な資料である。
 
 
六十九翁俳画
英一蝶
1652-1724
紙本着色
個人蔵
54.8 x 116.0 cm

英一蝶は、暁雲の号にて俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と親交を持つ。狩野安信のもと、画力や俳諧の技量にも優れた門下生であったが、わずか二年で破門になる。その理由としては、様々に推測がなされたが、一蝶自身が極めて破天荒な人間であったことや、風刺風俗的な表現を好んだこと、綱吉の生類憐みの令などに違反したことなどが主なものとされる。二度投獄された記述ものこされているが、初回は数ヶ月で放免されたものの、二度目は島流しの刑となり、47歳で伊豆三宅島へ流された。綱吉没後、大赦となり、11年ぶりに58歳にて江戸に戻り、その後15年間、73歳まで生きたとされている。江戸に戻る頃には、親交の深かった芭蕉、其角はすでに世を去っていたが、本作は、一蝶が没するおよそ四年前、若かりし頃に戯れた二人を偲び詠まれたものである。暁雲六十九翁、破天荒な人生を送りながらも、昔の友を懐かしむ切なさが読み取れる。

結事の夢に似て里さ免とる又
う徒らハめに須或目螺舎其角と云う
深川似て芭蕉庵に遊び夕にへる途中の吟

たかかけのとか多かけてへるらず
螺子氏匂うはつんで
身越○寸の女と
想ひきる世に

芭蕉も破れ螺舎も
◯だけうせとるにこわれの徒然
思へばはからつる世や

暁雲
六十九翁
英一蝶【花押】
 
 
寿星亀図
曾我蕭白画 賀茂季鷹讃
1730-1781
紙本着色
個人蔵
60.5 x 185.0 cm

若冲同様、江戸絵画史において欠かせない存在が蕭白である。いわゆる「奇想の画家」として、若冲・蘆雪・応挙と並び名が挙がる蕭白だが、蕭白こそ、最も「奇想」という言葉に相応しい絵師である。本図は壽老人という一般的な画題を描きながらも、巧みな筆捌きをもって、蕭白特有の奇妙な絵画世界を完成している。曰く、「画が欲しいなら我に頼み、絵図が欲しいなら主水(応挙)が良いだろう」。この言葉から推測される通り、狂気じみた奇才という言葉に相応しい人物で、引き合いに出された応挙は、蕭白とは正反対の画を得意としていた。
 
 
白梅図
伊藤若冲
1716-1800
紙本
個人蔵
37.2 x 111.0 cm

落款に、米斗翁八十翁画とある。
近年、エツコ&ジョー・プライスコレクションによって脚光を浴びた江戸絵画のなかで、まず名が挙がった絵師が伊藤若冲である。
若冲は、再現不可能と言われる細密画の他、墨絵においても名作も数多く残した。若冲"居士"という落款印章にあるとおり、"居士"すなわち「仏教に帰依した在家の男」として、青物問屋の長男として生まれながら家業を弟に譲り、剃髪して禅に傾倒し、画を描き続けていたといわれている。
若冲は、日本に煎茶文化を広めた「売茶翁」に出会い、黄檗僧とも関わりが深かった。売茶翁との出会いが一つの転換期となり、作風が変化したとも伝えられる。本図は、一見すると素朴な墨絵ながら、若冲特有の、飛び抜けて早い筆致で、濃墨、青墨を使い分けながら描かれている。若冲といえば、鶏をはじめ多くの動植物を描いた作品で知られているが、本図に類する白梅図は、京都天真院にも晩年の作が残り、高く評価されている。
 
 
荒海や佐渡によこたふ天河
松尾芭蕉
1644-1694
紙本着色
個人蔵
57.6 x 122.0 cm

窪田猿雖家伝来 蝶夢極。
『芭蕉全譜集』にも掲載される芭蕉『奥の細道』を代表する一句。『全譜集』掲載作二点とは、部分的に異なる点が見受けられ、新出資料として極めて貴重な作品である。伊賀蕉門最古参のひとりとして、芭蕉からの信頼が厚かった窪田猿雖家に伝わるもので、極め書は、浄土宗僧侶であり、俳人でもあった蝶夢が記している。蝶夢はまた、生涯芭蕉顕彰の第一人者として活躍した人物であり、その功績は大きく、本作は、窪田家に伝わった描き添えを、蝶夢自身が極め書に記している貴重な作品でもある。

ゑちごの駅出雲崎といふ處
より、佐渡がしまは海上十
八里とかや。谷嶺の嶮岨
くまなく、東西三十余里に
よこをれふして、まだ初秋の
薄霧立もあへず、波の音さす
がに高からず、たゞ手のとゞく
計になむ見わたさる。げ
にや此のしまはこがねあまた
わき出て、世にめでたき嶋
になむ侍るを、むかし今に
到りて、大罪朝敵の人々
遠流の境にして、物うき
しまの名に立侍れば、いと
冷じき心地せらるゝに、霄の
月入りかゝる比、うみのおもていとほ
のぐらく、山のかたち雲透に
みえて、波の音いとゞかなしく
聞こえ侍るに、
        芭蕉
荒海や佐渡に
   よこたふ天河
 
 
岩上観音図
高橋草坪
1802-1833
紙本着色
個人蔵
42.2 x 173.0 cm

高橋草坪は、田能村竹田の高弟であり、わずか32歳で早逝した。
竹田自身、草坪の画力と作品を極めて高く評価しており、草坪の出来の良い作品は我も敵わずと認めさせた実力の持主であった。
竹田荘に入門後、師である竹田に伴って巡遊したが、晩年は京阪ですごし大阪天王寺に沒した。静嘉堂文庫には、倣陳希三観音画帖を残すが、
その他に現存する作品は極めて少ない。
本図は、上三分の二を余白として残し、あえて下部に巌上観音を集中させて描くという、草坪ならではの特色ある構図を持つ。極書は、前田文進堂によるものと推測される。
 
 
菊童子図
片山楊谷
1760-1801
絹本着色
個人蔵
49.4 x 180.0 cm

片山楊谷は、現在の鳥取県・因幡【稲葉】画題の俊傑と言われた絵師である。
江戸中期の長崎派に学んだ楊谷の作品は、長崎派由来の緻密な筆使いと濃密な画面構成を特徴とする。本図、菊童子図には「洞世哦」の落款がある。実は近年まで、「洞世哦」を名乗る絵師は楊谷ではないと言われていたが、極めて楊谷と似た点が多いため、今では片山楊谷の銘とみなされている。楊谷の菊童子は三幅の構成で描かれるものと、単幅で描かれるものがあり、本図は後者である。三幅の場合、中心に童子を配し、両側に華やかな菊を描く構成をとるが、本作のように単幅で表される菊童子図は、一画面の中に菊を折り込んで仕上げる。楊谷の代表的な画題である菊童子、本図は新出でもあり、あえて入手時の保存状態のまま出展した。
 
 
李朝水墨葡萄図
作者不詳
17世紀
紙本墨書
個人蔵
40.2 x 150.0 cm

17世紀頃に描かれた李朝絵画の名作。
古来、葡萄図は中国・李朝から渡来し、日本絵画でも多く描かれてきた画題だが、本図は数多の水墨葡萄図の中でも群を抜いた出来といえる。
江戸絵画の葡萄図といえば、まず名が挙げられるのがプライスコレクションの若冲作であるが、本図はそれに比して劣るところがない。折り重なる葡萄の膨れ上がった実の隙間、そして、幹に絡む蔓や葉の境界を、滲む墨のなかで極めて緻密に描き出した作者の技量は見事といえる。実りの極みにある重々しい葡萄が、地に届く位置まで垂れ下がり、それに囲まれた栗鼠が、とり憑かれたように実を貪っている、圧倒的な豊穣の光景である。
たびかさなる修繕のため、本紙裏には無数の「鎹」といわれる折れ止めが施されており、加えて本紙も繰り返し洗われているため、墨自体が薄くなっている。ただ、薄れた墨の濃淡がさらに微妙なものとなり、本図の緻密さと凝縮した美を、あらためて映し出したように感じられる。
『工芸青花』13号(2020年1月)所載品。
 
 
扇面鮎図
伝土佐光成
1647-1710
紙本墨書
個人蔵
59.8 x 115.0 cm

土佐光成は、歴代土佐派絵師のなかでも名手と評される。彼が活躍する以前、中世、土佐派の絵師は絵所預に任ぜられていたが、桃山時代、狩野派の躍進によって衰退していた。その土佐派に、一躍復興をもたらしたのが、光成の父・土佐光起であり、光起は従来のやまと絵に新たなテイストを加えて、さらに漢画の技法や、狩野派の技法までも取り入れることに成功した。
本図にも、濃紺の顔料で表された鋭利的な岩肌や、同じく鮎の表現など、狩野派や漢画の特徴をうかがわせるところがある。箔が空気表現に用いられ、復興土佐派特有の絢爛な優美さの中に、奥ゆかしい彩色表現が施されている。
実は、京都で本図に出会ったとき、真っ先に頭をよぎったのが、江戸初期に描かれた、作者不詳・流派不詳の簗図屏風であった。こちらもまた、優美な華やかさの中に、日本的な美しさを感じさせる作品である。
 
 
大乕図
熊代熊斐
1712-1773
紙本墨書
個人蔵
94.2 x 197.5 cm

熊斐は、江戸時代中期の長崎派を代表する絵師で、熊斐と言う漢名を用い、沈南蘋に師事した唯一の日本人でもあった。長崎派・南蘋特有の緻密な画風から、南宋画風のものまで、さまざまな特徴をもつ作品をのこした。本図は、掌のふんわりとした柔らかさ、毛を丁寧に一筋づつ描くところ、揺れ縞の描き方などに、師である南蘋の作品に近しいところがみられる。今にも襲いかかるかの如く、片腕を持ち上げ口を大きく開き、眼を見開いた虎の表情が、作品の大きさとあいまって、観るものを圧倒する。
 
 
蘭竹石蟹図 双幅
江稼圃
生没年不詳
紙本
個人蔵
44.5 x 185.0 cm

江稼圃は清朝後期の書画家。中国浙江省生まれといわれるが、生没年は不詳、文化元(1804)年に長崎に来舶した事がわかっている。
以後、数回に分け来舶し、伊孚九、費漢源、張秋穀と並び「来舶四大家」 の1人に数えられ、日本の文人画発展に大きく貢献した。当時、文人画の大家であった大田南畝や田能村竹田とも親交を深め、木下逸雲や菅井梅関などの技法に影響を与えた。 本図は、蘭竹石の図に蘭蟹、いわゆる祝儀図として描かれたものであろう。君子蘭や竹、そして蟹は、古来より中国では縁起物とされる。蟹は学業を司るともいわれ、祝いの精霊的な役割も担うことがある。シンプルに墨のみで描かれた、スピード感溢れる中国画家の筆捌きは、日本の文人画家には表現できない、ある種独特の洒脱さをたたえたものである。
 
 
独僧竹図双幅
雲谷等益
1591-1644
紙本着色
個人蔵
62.5 x 209.0 cm

雲谷等益は、江戸時代初期に、現在の広島で雲谷等顔の次男として生まれた。
のちに雲谷雪舟四代を名乗り、雲谷派としての画風の確立に尽力しながら組織作りを行い、狩野派と並ぶ一大流派の基礎を築いたことでも知られる。
本図は、その構図から、おそらく屏風剥がしの作品と推測される。墨の濃淡で、衣紋線や人物の輪郭、遠近感を表現し、細やかな墨竹においても、その濃淡を自在に操りながら遠近感を表している。
往時、一大流派を築き上げた雲谷派も、狩野派の勢力が増大したのちは、本州西部から九州にかけて、僻地での活動に甘んじざるを得ず、昨今の認知度もけして高いとは言えない。ただ、本展に甫雪等禅と雲谷を組み込ませたのは、あらためて再評価されるべきものとして、雲谷派に注目したいと考えたためである。
 
 
天神図
雲谷等蟠
1635-1724
絹本着色
個人蔵
50.0 x 165.0 cm

雲谷等蟠は江戸時代前・中期に活躍した雲谷派の画家で、山口の萩を本拠として活動し、長兄・雲谷等與の後を継ぎ、「雪舟六世」と名乗った。
本図は一般的に「天神さま」として信仰される、菅原道真の図である。
古来、天神とは地神に対する天津神の事を指し、特定の神を指すものではない。現代では、菅原道真=天神さまという印象が強いが、実際には 御霊信仰が天神信仰へ変化したものである。
菅原道真は、京都で代々の学者家庭に生まれた。
幼くして、文才、漢学ともに極めて優秀であり、神童とも呼ばれるほどの秀才であった。
遣唐使の停止を上申することによって、日本独自の文化の発展に大きく貢献したとされる。
最年少で方略試という最高至難の国家試験にも合格し、33歳で文章博士になり、当代随一の大学者として尊敬を集めた。
秀才ぶりを宇多天皇に認められ右大臣となるが、醍醐天皇や左大臣藤原時平などの勢力におされ、現・福岡県太宰府へ左遷される。都を離れる際、道真は、屋敷の梅の木につぎの和歌を詠みかけた。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ(春風が吹けば花を咲かせて花の香りをふりまいてくれ梅の花よ、主人がいなくても春を忘れないように)」 太宰府で厳しい生活を余儀なくされながらも、自らの冤罪が晴れる事を願いながら、無念の内に59歳にて歿する。そののち、道真を逐った藤原氏系の人々に、次々と、落雷による災いや奇病が続き、それらが祟りとして恐れられた。醍醐天皇の命により社殿が設けられたが、結局、災いを避けられず、醍醐天皇自身も命大としたといわれている。
後一条天皇は道真に、朝廷で一番偉い役職である太政大臣の位を贈り、北野に参拝、同時に大宰府の天満宮でも、天皇の命令により祭事が行われた。このこが後の天神信仰の起源となり、道真の秀才ぶりも今に語り継がれ、現在では、学問の神として崇められている。
山口県立山口博物館旧蔵。
 
 
桂女鮎売り図
岩佐又兵衛 工房作
1578-1650
紙本着色
個人蔵
45.7 x 51.0 cm

岩佐又兵衛は、織田信長の家臣・荒木村重の子として摂津国に生まれ、江戸時代初期に絵師として活躍した。海北派、長谷川派、雲谷派の画法を取り入れた作品を多く生み出している。本図は、「桂女鮎売の図」といわれ、桂の地に住し、鮎や飴を売り歩いたとされる女性の姿を描いたものである。豊頬長頤という顔の描き方に加え、衣や脚等の装飾表現、体躯表現、虚弱な木々の描き方などは、同じく又兵衛の手による寂光院図や、『伊勢物語』第十四段「くたかけ」等と、所々類似している。素材の紙質もまた、又兵衛と同時代の特徴的なものであり、岩佐又兵衛もしくは工房作という推定は、極めて合理的といえる。
 
 
双鳥流水図屏風
作者不詳
江戸初期
金台紙
個人蔵
129.0 x 110.0 cm

制作年代は、箔の様子などから江戸初期あたりと推測される。画面中央に流れる小川に二羽の小禽が舞い、向かって左に色濃い彩色の岩を配置し、遠近感を持たせている。小川の中には、鮮やかに塗られた岩を配置し、その先で舞う二羽の小禽を、あえて薄く表すことで、手前に折り曲げる屏風の構造的な特性を生かし、空間表現を演出している。