日本美術史に於いての"核"と"根幹"展

 
中古・中世・近世・近代という系譜で日本の書画は発展を遂げて行きますが、そこには時代別に応じた発展と価値観に応じた需要が存在し成り立っていきます。
島国である日本の文化は、大陸文化とは異なり独自の"美意識"や"情緒"と言う内面を表しています。
信仰・文化・需要・反映・と言った成り立ちを日本美術史で最も重要な"核"と"根幹"であるべき書画と言う分野を通して感じて再認識頂ける事を願っています。

第4期 禅僧の画と書

一口に禅画・禅書と云えど、書画としての様式や画力や技量は様々です。
禅僧から画僧まで様々な僧が存在します。
禅の教えや社会的な風刺表現を掛け言葉で描いたり、文字だけで表現したりと様々な姿を見せる禅画や禅書。
スタンダードな書作品から、ダイナミズムな作品に対しての細密画であったりと、様々なバリエーションを、画題と言う面に重きを置きピックアップ致しました。
禅は一言の言葉で簡単に伝わるフラットな意味合いではなく、宗派問わず心に響き映るもの、そのものです。
作品を通し、何かしら心内を感じていただける事を願っております。
 
 
達磨図
甫雪等禅
1579
紙本着色
個人蔵
52.3 x 164.0 cm

室町時代の画僧、出自は肥前松浦郡。雲谷等顔同様に、雪舟等楊の高弟とされる。
京都臨済宗東福寺の僧であったことを示す資料も残るが、現存作品は少なく、詳しい経歴は未だ把握されていない。
その作品は、日本美術の優品を集めたジョン・C・ウェーバー・コレクションをはじめ、名だたる博物館に収蔵されている。
本作は、雪舟や等顔の達磨図と同様に、厳しい輪郭線で捉え、人肌の淡い彩色を施したもの。
険しい表情で睨み付ける達磨は、中世室町時代の画僧としての息遣いをうかわせる、緊張感の強い一作である。
※関美香『古くて美しいもの―古美術入門』(平凡社、2010年、コロナ・ブックス)所載品※
 
 
囲炉裏画賛
白隠慧鶴
1686-1769
紙本
個人蔵
37.3 x 143.5 cm

白隠慧鶴は、江戸中期、駿河に生まれ、15歳で出家し臨済宗の禅僧となった。修行しながら巡歴したのち、33歳で松陰寺に戻り、住職となる。その名声の高まりに応じて、多くの門弟が松陰寺に集い、白隠は臨済宗中興の祖と称されるまでになった。
白隠は還暦を過ぎてから、本格的に書や画に励んだが、その独特の作風と多作ゆえに、白隠の作品抜きでは、日本の禅画の歴史は語ることができなくなった。言わずと知れた禅画の大成者である。
 
 
一行書
木庵性瑫
1611-1684
紙本
個人蔵
30.5 x 209.0 cm

木庵性瑫は、中国、明時代の福建省泉州に生まれ、江戸時代前期に渡来した僧である。1655年、前年に渡来した隠元隆琦の招きに応じ、長崎福済寺の住持となった。中国黄檗山に登り、隠元隆琦からその法を受けた事で知られる。のちに隠元の後を承けて、宇治黄檗山万福寺第二代住持となり、江戸紫雲山瑞聖寺を開山する。慧明国師の勅諡を賜った。
木庵は、隠元・即非とともに、『黄檗三筆』のひとりに数えられた能書家であり、本図は、その書風を色濃く表した一行書である。おおらかでありながらも、筆圧の強さを感じさせる筆運、そして、厳しさと伸びやかさを兼ね備えた墨の有様が印象的な、黄檗宗特有の、緊張感とスピード感を強く併せ持った作品である。
 
 
一行書
琢玄宗璋
1795-1858
紙本
個人蔵
27.3 x 185.0 cm

琢玄宗璋は、江戸時代前期、相模の国に生まれた臨済宗の僧、大徳寺183世。相模了義寺にて出家し、菊徑宗存に師事、師と共に早雲寺の再興に尽力を尽くした。諡号は法梁隆徳禅師。
現代の茶会本席では、各家元の一行書や、大徳寺の一行書がかけられることが多い。そうした作品が、家元の『好み物』として安易に選ばれがちではないかと、 愚見ながら疑問を感じている。ただ、本図の様に軽快な筆運で力強く書き上げられた一行書を眺めていると、同じような書ばかりが茶会にかけられるような風潮にも、いくらか納得させられてしまう。茶湯に接すると、各流派の形式的なところばかりが目につきがちだが、今一度、『温故知新』という言葉の通り、茶湯における表現の自由、あるいは茶湯を成立させる括りを、いずれも核として大切にしつつ、見つめ直して行きたいと思わせる一行書である。
 
 
坐禅骸骨図画讃
蘭山正隆
1713-1792
紙本着色
個人蔵
33.4 x 140.0 cm

蘭山正隆は、江戸時代中期、出羽国に生まれた、臨済宗の僧。月舟禅慧、太道文可に師事し、古月禅材の法を継いだ。豊前開善寺の住持となり、のちに妙心寺首座となった。謚号は円機妙応禅師。
本図は、蘭山筆の『坐禅骸骨図』に、「江月照し松風吹く」と言う賛が添えられている。あるとき、快庵禅師という高僧が、心を病んで人喰いとなった僧に、この詞を唱え熟考せよと諭して去り、一年後に再訪してみると、そこにはまだ、禅師の与えた青頭巾をかぶり、小声で「江月照らし」と唱え続けている僧がいたため、禅師が柱杖で僧を一撃すると、青頭巾と白骨のみが残っていた、という逸話に取材した作品である。禅の世においては、一皮剥けると皆髑髏。本図もまた、どれだけ着飾り、身分の違いが在ったとしても、ひとの内実は皆同じであるといった考え方を表した作品であり、髑髏については、故人を偲ぶ意味合いがあるともされている。
 
 
行燈図画讃
仙厓義梵
1750-1837
紙本
個人蔵
45.5 x 114.0 cm

仙厓義梵は、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧。博多聖福寺第123世。ユーモラスな画を描き、仏法を説くとともに、風刺をよくする禅僧として広く知られている。先に紹介した白隠と並び、仙厓もまた内外で人気が高く、出光美術館に多数が収蔵されている。本図は、行燈の灯りに、儚くも喜び集まる虫達が、灯された火により身を焼かれ、虚しくも命を絶たれる様を詠ったもの。「悲しきは色を好める夏むしの火を貧りて身を果たしけり」。
『仙厓遺墨集』(鐵齋堂、昭和52年)所載品。
 
 
摸写禅月大師感得之図
佛乗慈僊
1798-1870
絹本着色極彩色
個人蔵
62.0 x 198.5 cm

この種の禅画は、中国・唐末五代末の高僧・禅月大師貫休(832-912)が『応夢羅漢図』をよく描いたことから、宋代以降、数多の禅僧が『禅月様』と称して羅漢図を描いたことに起源をもつ。本図は、江戸後期、越前に生まれた曹洞宗の禅僧、佛乗慈僊によるものである。
日本伝来時、羅漢図は、現世において正法を護持し、衆生を導くことを目指した「十六羅漢」を描くものへと変わっていったとされる。本図では、中央の釈迦を十六人の羅漢が囲う。釈迦は、佛乗の画に特徴的な仏の微笑をたたえており、羅漢はそれぞれ異なる表情と衣裳をもって描かれた。佛乗の作品としてだけでなく、江戸時代の禅画全体においても類例を見ないほど極彩色の作品で、作品としての仕上がりも、保存状態も、共に素晴らしく、まさに名作といえる禅画である。
 
 
龍虎双幅
風外本高
1779-1847
紙本着色
個人蔵
72.0 x 223.0 cm

風外本高は、江戸時代後期の伊勢国の生まれで、曹洞宗の僧。玄楼奥龍の教えを受け、のちに難波円通寺、三河香積寺に歴住した。
月僊、池大雅から画を学び、画僧としても活躍。晩年、蛸に似た落款を用いたことから「蛸風外」と称された。
壮年期には、細やかな筆致で描かれた作品や、奇怪な表情の作品が見受けられるが、晩年には、大雅などの影響も濃い、洒脱さが際立つ作風が強まる。本図は、その銘からも、「蛸風外」と呼ばれた円熟の晩年に向かう転換期の作と思われ、おおらかな筆遣いで、薄く僅かな配色を施している。風外の作品は現存数も多いが、その多くが虎のみを描いたものであるなか、本図は虎に昇龍図も併せた、龍虎双幅の珍品である。寸法も極めて大振りで、群を抜いた良作といえる。
 
 
龍上観音不動明王図
豪潮寛海
1749-1835
絹本着色
個人蔵
26.6 x 121.5 cm

豪潮寛海は、江戸後期の天台宗の僧で、比叡山楞厳院阿闍梨である。個性的な書画を多く残したが、なかでも、本図は異質の興味深い作品である。一つの絹本に、龍上観音と不動明王をあわせながら、あえて中心部分で、いかにも分割された作品であるかのように描いている。極めて癖の強い書体のため、判読できない箇所が残るものの、悪運を断つ龍上観音と、憤怒の不動明王をならべ描いたところに、豪潮なりの、悪運や災いを寄せず断つ、という強いメッセージが感じ取れる作品といえる。
 
 
人間天上一般秋 一行書
伝・一休宗純
1394-1481
紙本
個人蔵
38.7 x 181.0 cm

古筆了恵・今泉雄作 極書。
一休宗純は、室町時代の臨済宗・大徳寺派の僧。後小松天皇の皇子といわれ、6歳で山城安国寺にはいり、27歳のとき、華叟宗曇から印可をうけ、各地の庵を転々とし、当時の世俗化・形式化した禅への反抗を貫き、奇行風狂に生きた人物として知られる。文明6年には大徳寺住持を任ぜられ、寺の復興につくした。詩書画にすぐれ、後世つくられたとんち話で知られる。享年88。
本作は、真宗木辺派・本山錦織寺に伝わり、永く珍重されてきた伝・一休宗純の一行書である。『人間天上一般秋』、七字一行にて、きわめて一休らしい、鋭くスピード感溢れる筆運びがみられる。無印無落款ながら、一休作とみる評価の信憑性は高い。